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院長からのご挨拶

愛媛県 松山市 原瀬歯科医院のホームページへ、ようこそ。
このホームページでは、日ごろなかなかお話する機会の少ない、私自身の「想い」や「治療理念」を実直にお届けしたいと思っております。
専門的な視点から話をする歯科医師と言う立場からの見解だけでなく、ひとりの人間として、私自身の「生の声」を飾らずに表現することで、一人でも多くの患者様に原瀬歯科医院(愛媛県 松山市内で開業)を知っていただき、興味を持っていただけるのではないかと考えております。
このページでは、原瀬歯科の歴史と、私自身が歯科医師になった経緯を紹介いたしております。
お時間の許す限りお読みいただければ幸いでございます。
おひとりでも多くの患者様の笑顔を増やすことが、私自身の生きがいであり、原瀬歯科医院の存在意義だと信じております。
愛媛県 松山市 原瀬歯科医院
院長 原瀬 忠広

原瀬歯科医院の歴史

大正11年11月、原瀬歯科医院は誕生しました

愛媛県 松山市 三津 という地で、原瀬歯科医院は、今から80年以上も前に、私の祖父が開業いたしました。
港が近いこともあり、島の患者様の来院も多く、私が幼かった頃は早朝五時頃から、毎日予約の方が並んでおられたのを覚えております。

原瀬歯科医院は...祖父の時代から三代続いています

子供の頃、朝一番の私の仕事は、歯科医院の受付け扉を開けに行くことでした。
「おはよう」と同時に医院の入口を開けると、そこには多くの患者様が笑顔で待っておられました。
「こんなに朝早くから、祖父や父の治療を受けに来られるなんて...。」と子供心ながら、複雑な心境でした。
原瀬 広司氏 明治26年6日生 大正11年11月開業 昭和52年4月没

私は始め歯科医になる積りはなかった。サラリーマン生活もした事がある。千葉の千倉という所で兄が内科を開業しており手伝っている内、歯科を思いついた。

講義録というのがあったのでこれをとって勉強し後、東京の水道橋へ1年通い、その後東洋歯科で佐藤、沖野先生らについて学んだ。学科で合格したあと愛生病院でこずかいかせぎしながら実地試験をうけた。

関東大震災の後東京で医師の就職斡旋所から松山へ来た。当時は非医者が非常に多く松山にKや、Hや、Mやその他居た。そこへ100円の給料で入った。1年余り居たが月給をくれなかったりしてやめた。開業しても不景気の絶頂で患者吸収に苦労した。出張はよくやった。会長も久万まで出張していたようだった。

国鉄が松山開通したのは昭和5年だったろう。三津は伊予鉄の汽車と他社の電車があって競争しておった。大街道には今の義安寺から流れる川が流れていた。生活は収入は少なかったがせちがらくなくのんびりしていた。

同業者の会合は研究会というのでよくのみに行った。歯友会は若い人が多く旗頭は高市だったが、研究会との間に反目があった。材料商は松本薬品でも扱っていた。犬福舎や服部時計店、武田という鉄砲屋もやっていた。総会は大抵二日で「梅乃家」か「明治楼」だった。40人位出席していたかな。議案は朝から夕方までやり夜は宴会。学校医の総会も同時に組入れられていて学務部長が来て議長になってやった。

宴会費は芸者つきで2円だった。芸者の花代は80銭足らずだったろう。研究会は「亀の井」でやったものだ。(原瀬)

歯科医師である、祖父 と 父の背中を見て育ちました

明け方近く、早朝にも関わらず、次から次へと来院される患者様の列を見て、私はこんな風に思っていました。
「おじいちゃんも、お父さんも、毎日こんなに多くの患者様を、それも朝早くから夜遅くまで治療するのは、苦しくないのかな? 大変じゃないのかな? 自分は大人になったら、同じ松山の地で歯医者さんになるのかな?自分にこんな大変な仕事が務まるのだろうか?」

実は、歯科医院を継ぐことに不安を覚えた時期もありました

祖父・父ともに歯科医師という環境で育った私にとって、先々代が開業したこの松山の地で、歯科医院を営むことは、ある意味で自然な道ではありましたが、その反面でずっと迷いがありました。
その迷いは、子供の頃から間近で見つめてきた、一年中休み無く治療に打ち込む熱心な家族の姿、それと同じことを自分自身が実現する「自信が無い」という不安から来るものでした。

祖父の笑顔を見たあの日、松山で歯科医師として生きていく道を決めました

高校生になった私に、じわじわと「進路決定」という難関が迫り始めていたちょうどその時...突然、祖父が病に倒れました。
いつも元気に朝から晩まで笑顔で治療をしていた祖父。病院のベッドの上で寂しそうにしている祖父を何とか励ましたく、思わず口から出た言葉...「おじいちゃん、僕、大学の歯学部を受験するよ!」。
その瞬間にこぼれたおだやかなお日様のような祖父の笑顔。
「そうか、そうか。良かったな。頑張れよ!」
その力強い言葉に背中を押されるかのように、私は歯学部の受験にのぞみました。

歯科医師として自分が役立つという自信と勇気は、患者様からいただきました

家族や友人に支えられながら、努力の甲斐もあり、無事に歯学部への入学を実現した、たった一ヵ月後、安心したかのように祖父は他界しました。研修医だった時代、幼い頃から持ち続けていた心の不安(自分が本当に患者様のお役に立てるのだろうか?)は、完全に消えたわけではありませんでしたが、患者様とのふれあいの中で、ひとつずつ自分の信念が自信へと変わり始め、「もっともっと自分にできることがあるんじゃないだろうか!」と思うようになりました。

人間は弱いものだと、初めて心の底から感じた出来事がありました

自分の未来が少し見え始めた頃の私は、「歯科麻酔学」という分野の専門医になろうと考えていました。しかし、大学卒業と同時に母の胃癌が発覚。私は一日も早く歯科医師としての姿を家族に、「大切な母に見せてやりたい」と願うようになりました。
国家試験を目前に、病床で苦しむ母と向き合う中、焦りと不安がまたもや私を襲いました。人間とは弱いもので、確立し始めた勇気や自信は、ふとしたことで崩れ落ちてしまうものだということを、私はそのとき、初めて体感しました。

私が強く信じる治療理念は、大切な家族に教えられました

受験への焦り、不安の中で葛藤する自分に、医師としての心構えを教えてくれたのは、誰だっただろう? 振り返れば、今の私の治療理念の根底には、「母」の存在があります。
「元気になりたい」と頑張る患者様の姿、そこに向き合う「医師」という立場。
私は母の闘病生活を通じて、「患者様の気持ち」「その家族の想い」を学び、また母に誠実に接してくださった若い外科医師の姿から、「医師」が存在する理由を教えていただきました。
治療する側が本気で、「この人を元気にしよう、この人の笑顔が見たい」と思うことが医師として一番大切な「心のありかた」だと、そのとき強く感じたのです。

祖父と父、そして母が守り抜いた松山の歯科医院、これが私の生きる道です。

昭和62年、49歳という若さで母が他界。その後、平成4年、父も母と同じ病気で他界。
気付けば、原瀬歯科医院は、祖父や父の病院ではなく、私自身が「生きる道」そのものに変わっていました。
おだやかに余生を送りたいと言う父が晩年に描いた絵画を院内に飾り、私の家族が患者様にまっすぐ向き合い守り抜いてきた「心」を私自身も受け継ぐことを胸に誓い、私は院長としてこの松山 三津の地で歯科医院を営み続けることを決意いたしました。

患者様の笑顔を増やすことが、私の生きがいです

スタッフ全員で患者様の笑顔を増やそう。「痛みが取れたよ」「元気になったよ」そう言って、かつて祖父や母が私にくれたような温かい笑顔をお一人でも多くの患者様からいただくことが、今では私自身の生きがいになっています。
歯が悪いから、痛いから歯科医院に来る、というスタンスではなく、患者様おひとりおひとりに「ご自身のお口の中の健康」を考えていただける、そんなアドバイスができる「前向きな治療」を実現できるように努めることが、原瀬歯科医院のコンセプトとなっています。

歴史を最後までお読みいただき、ありがとうございました

私を信じて歯の悩みや健康についてご相談を希望される患者様がいらっしゃいましたら、ぜひご連絡をください。心よりお待ちいたしております。
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